20161014

新しいか古いかではなく、SNSで雑記するのは好きじゃない。単に僕が、そういう場所に適した書き方をやりたくないだけかもしれないけど。でもとにかく、適してないことを適してない場所でやる趣味が、自分にはない。

facebookは繁華街の汚い通りと同じぐらい広告にまぶされていて、冗談じゃなくて本当に神経がおかしくなるので見ていない。だからそこに何か書いている友達には申し訳ない。自動的に流れる映像や煩雑な設定、胸くそ悪い表示アルゴリズムのおかげで、1日1秒か2秒しか使っていない(一部のSNSは、楽しく感じさせるために自動的に「見るべき人の見るべき投稿」をフィルタリングしている。それがもう楽しくないんだってば!)。

Twitterとかは、大勢の人が広告をキャンセルするようなクライアントを使っているのかもしれない。Twitter社の収入が下がり、より広告を増やし、また人が広告を見ずに済む方へ逃げ、また広告を増やし、、ちょっと僕の知ったことではないし誰がどう使おうが知らないけどとにかく、神経がおかしくなるので見ない。

神経がおかしくならないというのは、僕にとっては大事なことです。いま日本で見る多くの広告は、尊敬できない精神から生まれた、尊敬できない画像と文章となっています。できるだけそれに接してはいけない。チラシを生活から減らせば、チラシの裏に適した何かを書く徒労からも解放されるし、気分のいい生活を自分で選んで実行していたい。なんかそれが良い気がする。

自分で組んで自分でアップロードする方法に愛着もあるのでそうすることにしてる。今まで色んな方法をやったし、今回もいろいろ迷ったけど、結局これは、まあまあ良い。

ツイートボタンだけ各記事につけるので、何か感想があれば、お気軽に(サイトへのURLと記事の簡単な説明が出るのでシェアできるという、簡素な仕様です)。反応があった話題は、また書こうかなって気になると思う。また、ドネーションするとカードがもらえる遊びの仕組みを作る予定です。それはまた、できたときに書きます。


 20161016

「体力作り」という言葉があるってことは、体力って作れるんだろうな、と、数年前から考えていた。体力無い自覚があるし、欲しいと思ってて。理由は単純で、肉体が好調な時に精神は簡単に好調になるのは明確だからだ。僕はできれば、整備されたガンダムのようでありたい。ガンダムに見えなくていいから、自分でそう思えることがいい。

初めの1年は、「とにかく歩いたり体操すれば良いだろう」とか漠然と思っていた。しかし違う。人によって違う。

転んで骨折するような筋肉量の状態だと、1日20分のんびり歩くだけでも体力作りになる。えっと、先に簡単に言うと、自分の場合、もっと負荷が必要だった。僕の体には色々トラブルや弱さはあれど、入院するほどの病気ケガが、今ない。5階まで階段でのぼるとか、きつくなければ肉体労働の補助の補助の補助ぐらいはできる体だ。だから、「息があがる」とか「筋肉痛を起こす」とか、いろんな形で負荷を実感しながら「このメカの性能を(せめて60%とか)使ってやる」必要があった。

自動車だってガンダムだって、3速のギアは、3速にふさわしい速度に達しなければ使われない。同じように、たとえば心拍数が高くならないと使わない組織体や機能が、人間にもある。まあまあ放置できないような高熱、乳酸の蓄積具合、そういう多様な緊急性の発生が、肉体にとっての豊かな負荷になると考えた方が自然に思えるんだけど、どうでしょう。

できるうちに試しておこうと、色々やったら、結構よかった。効能は、実感としては色々あるけど、いちいち書かない。それらは僕のガンダムに起こったことであり、大事なことは「自分に与えられたガンダムを、よりよい状態で使おう」という精神性だ。

前々から「1日の中で起こるあらゆる起伏は、(ある程度までは)大きいほど良い」んじゃないかと怪しんでいた。うれしいこと、おどろくこと、しょっぱいこと、甘いこと、暑いこと、寒いこと、そういうジェットコースターを、「慣れ」の起こらないような有機的な順序や頻度で味わうことが良い。ずっと同じルクス数で光る画面を筋肉を使わず見つめ続け、砂のように灰色く感情が平坦であり続ける、刑務所のような生活の逆だ。刑務所で精神がつぶれるんだから、逆だとなんだか良さそうだ。

食べる料理もそうで、パリパリの部分とドロドロの部分、熱いもの、冷たいもの、できるだけ多様なものが有機的に一度に味わえると、感情が満たされる。そういうものとは違うかもしれないけど、心筋や血液、臓器などにも多様な状態を経験させることが良いのかもしれないと思う。


 20161022

ウォーキングデッドのドラマの新しいのがやるってことを知った。なんかいつか再開するって聞いた記憶はあるけどそんなことは覚えてられない。しかも、まだ最新のシーズンの1つ前も見てない。

僕が使ってるサービスでも、最新シリーズの開始に合わせて最新の1つ前が見れるようになってた。シリーズ6だ。全部みると10時間ぐらいかかるけど、全然いやじゃない。僕は今まで1〜5全部、見て後悔ない。予算とかの関係か、何度も止まったりしてるけど、楽しい。

ゾンビ文化との距離感とかはそんなに特殊じゃないかもしれないし、アメリカの世代間ギャップや、キリスト教的だったり近代のなんらかの価値観とかを適当なモチーフに注いでみたり、はがしたり、作ってる人たちがああだこうだやってる感じをついつい想像してしまうような雑味も良いけど、単純に連続ドラマって形式が滑稽で面白い。なんで人気が続かなきゃいけないのか、ゾンビが実際にはいないってことと同じぐらい、むなしい。

見ようとしたら、地域の問題で見れなかった。youtubeとかでも、日本から接続しないと見れないやつが多いし、仕方ないと思う。radikoも、起動すると、選局もさせてもらえずにエラーが出る。別にいいんだけど、見るぞ!と思って1日費やすつもりだったから、仕方なく出掛けた。

日曜だったからお店は大体休みだ。僕はこのシステムがとても好きで、月曜の朝がとても楽しみになるから。行こうと思っていたフリーマーケットの途中で大きな市民公園があって、突っ切るのに15分以上かかって、ミニ動物園まであった。ここがとても楽しくて、馬や牛、ヤギや羊、鳥も何種類かいて良かった。


 20161024

先月末にベルリンに着いて、あと数日過ごすので、10月はほとんどここにいた。メモを見ると、語学2時間と運動20分は毎日やってた。10月3日のドイツ統一記念日だけ、風邪をひきかけてなおすために運動を休んだ。雨は多かったけど、まだ冬って感じじゃなくて良かった。

滞在中にやろうと思っていたことは、語学とゲーム作りが主だった。描くものが多く、17日間はこれに使った。6日間は遊んだりして、3日間は準備や片付け。あとは本を読んだり人に会ったり絵や手紙をかいてた。

コンピューターとかを広げなくていいことは、大体外でやった。色んな場所に行けてよかったけど、まだまだドイツ語だと聞き取れなかったり話せなかったりすることが多い。僕に付き合わせると悪いので、すぐにあきらめて英語で説明する。それすらたどたどしくて、必要性って感じのものを感じる。誰かと会うと、「こんな話をしてみたい」と思う。その3割ぐらいしか、今はできない。

ノイケルンという地域で、ここに住むのは3回目。すでにこの何年かで変わったものもあるし、そうでないものもある。去年移民問題が色々あって、今年はもうすぐアメリカ大統領選挙があるので、色んな人が色んなことを考えてる。僕は来る途中にちょうど「帰ってきたヒトラー」を読んだこともあって、そこで描写されている今のドイツへの批判も少し重ねて見たりした。

まだ少しあるので、しめくくらずに終わり。


 20161027

一ヶ月しかいなくても、離れるのはさみしくなるので、日に日に悲しい気持ちになる。つらさとかじゃなくて、卒業式みたいな感じ。毎朝かよったパン屋も行き納めて、野菜の買い足しもしなくなった。

暗い気持ちじゃないけどメソメソはしてくるので、やけくそでからい食べ物を食べに行ったら、おなかが痛くなった。

うすくおなか全体が弱く痛い感じで、なんともないけど夜中に目が覚めた。すこししてまた寝て、朝、上階の子どもがどんどんばしばし暴れる音で8時に起きた。今回は僕は家族と一緒じゃなかったので、近所の子どもが毎日決まった時間に騒がしいのがうれしかった。

【プリズン・ブック・クラブ】という本のレビューをエキレビで書いたので、ぜひ見てほしいです。今年読んだ中でも、すごく気に入った本。レビューの文章も、書くのに2週間もかけてしまって、文章量もいつもの倍ぐらいになってしまった。

すこしでも普通の人にも、長くても読んでもらえるように、段落ごとに「はじめに、」とか「次に」とか「いよいよここからは」みたいなエサを配置してみたけど、長文を読み慣れてる人には鬱陶しいかもしれない。こちらです。よろしくどうぞ。


 20161030

帰国して空港から直接シカクにいって、「酒処ナオ」という催しにお邪魔させてもらった。定期的に集まって何か見たりしながら飲み食いする感じだと思う。その日はmonさんがアラスカ旅行の話をして、ミクラフレシアさんが料理を出していて、どちらも良かった。シカクに着くまでの帰路、最後の方は機内食をパスしたぐらいだったけど、このとき食べたものも心身に良かったのか、体調もすごい良くなった。偶然、とても好きな食べ物ばっかりだったしね。

次の日には「zine day osaka」というのがあって、印刷物とかをつくってる人が何十組か参加していて、それを見たり買ったりする感じ。お客もたくさん来ていた。全体的に、やってる人も来てる人も静かで行儀もよくて、いて嫌なことが全然なかった。ちょっとぐらいあってもいいんだけど、なくて済むならないのがいい。

ミクラフレシアさんはそちらでは、作品集などを置いていたり、特製の生地でお守りをつくるワークショップをしていた。詳しく分からないけど金銀の印刷をほどこした布で、これそのままでも欲しいぐらい面白い感じだった。

去年もたしか、この催しにちょっと遊びに来て、そのとき以来で会った人もいた。特定の何かでしか会えない人って結構いるけど、別にそれもいいなと思う。何でもそうだけど、それが無かったら、それすら無いんだし。

とにかく帰国してすぐの40時間ぐらい、自分の趣味に合う楽しい時間を過ごして、日本の好きな部分を濾過して煮込んでボンタンアメみたいにしたものだけを食べた感じになったので、このあと鬱々としないで済むかなと思う。


 20161101

けっこう寒くて、放置してた前の冬の灯油を捨てにいったり、荷物を片付けたりしながら、ちょっとずつ色々つくってる。

ドイツ語とトレーニングだけは、習慣をそのまま続けていこうと思って、やってる。寝て・起きたときとか、全然ダメージの度合いが違ってて、偶然かもしれないけど20時間の飛行機移動でも腰が死んでないのは驚いた。これは熱中する人がいるわけだな、と思う。

スーパーに行ったら、果物コーナーに人影が複数うごめいていて、ゾンビかな?と思ったら老人が「ミカン10個250円」みたいなのに、つどっていた。より良いミカンを選びたいらしく、4人ぐらいの老人が箱を囲んで、取っては捨て、キープしていたものと替えていた。心の中に絶対的な「良いミカン」の基準があるわけではなく、隣のミカンがよく見えるんだろう。仏教においてはレベル2で忘れるスキルだ。買い物を終えて帰るとき、まだ同じ人がやっていたので、なんだゾンビか、と思った。ひどい言い方かもしれないが、その状況はもっとひどいと思う。でも趣味かもしれないし、見方によってはパズドラみたいで楽しそうだ。

日本の人のいう「エコ」とか「もったいない」は、まあまあの数が卑しさで構成されてたり実行されていたりする。「同じ出費で、より多くを得る」「同じものを、より安く」そういう損得勘定、もっとも単純で知性を使わない、AIが人間から奪った仕事を、まだやってる人が多い。昔の人はそんなくだらないことは「孫子の兵法に書いてあるとおり…」とか言って、すっとばしたものだ。それで浮いた時間を、より人生が納得できる方向にエンジニアリングする。それすらも論語か何かに書いてある。

理念ドリブンで何かがおこなわれない。「社会環境がこういう方向に数ミリ動く」という惹句よりも「年間600円安くなる」とかにアンテナを向けることが「賢い」と教育されているので、そのロット出身の人は、何かで上書きしない限りはそういう仕組みになっている。それよりも優先すべき価値観をどこかで採用してこなかっただけかもしれない。でもそれはどうでもよくて、全体としてそういう人が多すぎて「それ以外」が少なすぎる、多様性の乏しさが良くない。

色んな人がいると、子どもたちが色んな将来ややり方を模索できて、後悔が減る。カラーが少ないことを良いことだと思う人もいるだろうけど、そのデメリットの多さと大きさを考えてみたら、僕はとてもそういう考えは持てない。

口が悪いと思われても、こういうこと、なんとなく書いておくと数年後に誰かから良かったと言われたり、感謝されたりする。そういう期待はそんなにしてないけど、そういうことが今まであったことは、ホームページでやっていこうと思う材料になってる。


 20161105

家を空けている間にArduboyっていうゲーム機が届いていたので遊んだ。(1)キックスターターでうまくいった、(2)クレジットカードサイズの端末で、(3)USBでプログラムを入れると動く。とにかくArduinoで動いてるゲーム機だ。

言語はC++みたいで、適当に書くと動く。サンプルが最初から結構見れるので、あまり細かいこと気にせずに作れる。本体のLEDを光らせたりできるし、十字キーで動かすゲーム端末上で動く何かをあまり作った経験がないから、結構わくわくしながら作った。しばらくやることがあるから、続きはまた再来週とかかな。

家を空けている間と言えば、野菜が高くなってた。国全体のスケールで見れば、こんなこと別にどうってことないかもしれないし、天候はコントロールできない。それぞれ別々のことだけど、自由貿易協定のこととかあって、色々考えちゃうと思う。貧富の差が大きくなったり、大きさを実感するようなことばっかりな気がして、調査の数字とかも見方によると思うけど、まあ、おおむねそっちに進んでるといっていいと思う。

みじめさとかから脱する希望がなくなって、諦め・捨て鉢・やけくそ・無気力になる人があんまり多いと、「自分(=人生=時間)を大して大切にしない人たち」による乱雑な消費を「かっさらう」のが商売の基本になる。それって、仕事と割り切ってやってることならいいかもしれないけど、きつい。それでもいいけど。僕の趣味と違うだけで。

そういうこと思うと最近、もう全部「あ、趣味が違うな。趣味が違うだけか。はい。」と思ってしまうけど、こんなの別に誰の趣味でもないよなあ、とも思う。「そういう感じなんだから仕方ない」とか「この与えられた環境の中で最善をつくす」みたいなの、おとなしくて行儀がいいなと思う。自分で選んで何か希望を見出してるなら全く問題なくて大丈夫だけど、もし嫌々認めてるだけなら、この感じだと、そのまま付き合わされて終わりな気がする。気がするだけだから、そんな気はしない人も多いのかもしれないけど。


 20161107

近所のスーパーの、鮮魚コーナーで流れている歌が、「おさかな毎日!さかなクン」さんの歌になってしまって、僕は彼が好きだけど、残念だ。フルだといいんだけど、一部がずっとループしてて、面白くない。

それまでは「おさかな天国」が流れていて、僕はこの歌が飽きない。「頭が良くなる」とか連続で唱えるもんじゃない気がするんだけど、「オー!」とかかけ声を出しながら何度も歌うのが良い。店中で音楽とか売り文句のテープが流れている国はたぶん珍しくて、「国中がパチンコ屋みたいな方向で、最先端技術も使いつつそれをやってて、狂ってて良い」と言う人は多い。

夏から、調べごとも兼ねて仏教の本を読んでる。今読んでる「仏教思想のゼロポイント」は、おすすめ。すごい雑に説明すると、仏教って、身近なだけに僕らはイメージを色々持ってるけど、根本的に間違ってることが多い。たとえば、悟りに至る実践は「誰にでもできるようなものじゃなくて、だめな人には、いくら教えても無駄。だから仏典も書きたくなかったんだよ」、「世の中すてる気でセンスのあるやつじゃないと無理」って感じで明言されてる。

輪廻に関しても誤解が多くて、「Aさん」が「Bさん」に生まれ変わるわけじゃない。仏教の輪廻というか、循環は「すべての現象が因果で動いていて、今起こってることは100年前の誰かの行いや、2000年前の誰かの行いや、目の前の誰かの言葉が重なって起きてる。この人生でやってきた色々な行いが、今後のこの世にさまざまな形で影響する」ということをブッダは書いている。

決定論とかバタフライ効果みたいな、西洋哲学や自然科学の考え方と接近するような部分があって、それで時代や地域を問わず学ばれてる。そういうのは一通り知ってる人でも、読むと結構発見があると思う。特に僕が最近意識するようになったのは、ブッダもまた、当時のインドの様々な哲学者の中の一人だったというところ。あの人だって、周りの研究者の流行とか、今までの流れみたいなのを自分の中で煮詰めて、それを打開する究極回答を探そうとした側面があって、そういう「当時」の感覚をこっちが持ちあわせつつ読むと、またさらに良く伝わってくる部分がある。

強く自分に効いた部分というか、世界と付き合う上で良いと思ったことはまた、砕いたりゼリーにして漫画「香山哲のファウスト」に流し込んでいくと思う。ブッダもまた、「ゼリーにも意味はある」という感じのことは、書いてる。悟れなくても、悟りを理解して、誰かにいい影響を与えられるからだ。


 20161110

すごいざっくり言うと、大統領選挙の経過を見て、「1人を決めるってことだから、誰かに決まっちゃうよな」と思った。議会もあるし独裁ってわけではないけど、大統領の権限も結構あるから心配だ。

日本でもそうだけど、「将来に希望を持てているかどうか」の格差が大きい、というのは気になる。ただでさえ生まれや育ちで決まることがかなりあるのに、希望の量に大きな差がつくっていうのは、暗い。

資本主義の競争が世界規模でおこなわれてるんだから、「国の中で再分配するより、お金持ってる人にお金もたせて大勝利を期待する」っていう方向性あるんだろうけど、そっちすぎる景色にうんざりする。ただ、これも考えようだし、僕はそんなにたくさん考える材料を持ってるわけじゃない。定期的に心を無にして、改めて今日本やアメリカがどうなのかを見てる。「僕の趣味に合わないやり方が多いな」と毎度思う。